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沿革-タイルメント50年の歩み

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技術研究所・誠和寮完成

井上氏の写真
技術研究所初代所長
故 井上 正夫氏

昭和39年、東京オリンピックの年、念願の技術研究所が完成。
技術研究所の初代所長に当時名古屋市工業研究所の井上正夫氏を招いて本格的な研究体制が整った。これ以降注入用エポキシ、陶磁器タイル用接着剤など当社の開発製品が建築現場で広く採用されていくこととなった。
井上氏は昭和58年11月退任されるまで当社の技術の中心となって活躍されることになる。

井沢八郎の「ああ上野駅」がヒット。この頃は田舎から都会に就職列車で上京。各企業は受け入れのための厚生施設を拡張していた。タイルメントも従来の寮が手狭になり、近代的な鉄筋4階建て「誠和寮」は昭和41年10月に出来上がった。外壁一面に壁画タイルで商業の神様「ヘルメス」が鮮やかに描かれ、道行く人の足を止めるほど注目された。

誠和寮の名前は社員から応募を募り、多数の中から社是「誠実」からとった「誠和寮」に決まり、翌年からは新卒者は全員一年間の入寮が義務つけられ、集団生活の中で人格形成をめざした。翌年春には寮生で庭園を作ることになり、休日を利用して3ケ月掛けて池を真ん中に配した25坪の庭を完成させ、記念樹としてメタセコイアを植えた。

常に定員一杯で古参の者はどんどん押し出される状況であったが、時代とともにその役割を終えメタセコイアが4階の建物より大きくなった昭和59年暮れに取り壊され其の役目を終えた。
技術研究所は、昭和60年大垣工場に新たに建設された技術開発センターに移転することになる。

井上氏の写真
誠和寮

目標管理制度

昭和42年4月18日 8.00~8.30 NHKテレビで「これからの中小企業」と言う定時番組で、当社が前年より取り入れ実施している目標管理制度が取り上げられ、実施状況や成果について放映されました。この時期まだこの制度を取り入れている企業は一部の大企業だけで中小企業ではほとんど皆無で一つのモデルとして紹介されました。

内容 中期3ケ年計画の中で人材能力の開発、組織能力の発揮が求められその達成を目的として"目標管理"方式を導入。
各自が具体的目標を策定し取り組むものだが、最初は身近な身の回りの事柄(整理・整頓)を目標としてあげた。
その後次第に業務目標、経営数値目標へと目標を高くして行く等、息の長い取り組み実態が紹介されました。

大阪万国博覧会(昭和45年)

本社社屋の写真
昭和44年完成した本社社屋

芸術はバクハツだ!! と叫んだ岡本太郎の「太陽の塔」がシンボルマ-クとなった、アジア初めての万国博覧会が大阪千里丘陵で開催された。

テ-マは「人類の進歩と調和」。目玉は前年にアメリカのアポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」。その他日本庭園。77ケ国が参加し、各企業が競い合った116のパビリオンには三波春夫の「万博音頭」に乗って連日人の行列が出来た。

多い日には炎天下1日83万人がつめかけたという。この会場建設には太陽の塔をはじめ、各パビリオンでも接着剤が使用され用途拡大のキッカケになった。

当社は万博見学をバックアップ。新幹線等の交通費、入場料が会社負担となり、ほとんどの社員が見学した。

万博の入場者数は予想の倍の6,400万人にのぼり、国民的行事といわれた。その後昭和60年の「科学万博つくば」は2,000万人、平成2年大阪「花と緑の博覧会」2,000万人と健闘した。

建築業界へ羽ばたく
技術で市場と世界をつなぐ

世の中は東京オリンピックをめざし、東海道新幹線をはじめとするインフラ整備が進み、その後の「いざなぎ景気(昭和40年.45年)」と続き昭和45年3月には大阪万博が開幕日本経済は飛躍の時期となった。

当社もまた、この時期には商品アイテムも30品種以上の品揃えができ、建築関係の方々に広く知られるようになってきていた。 昭和41年建設省は1世帯1住宅の新5カ年計画(760万戸)を発表し、年間新設住宅着工数147万戸を計画。当社の主力商品の1つであるアスファルトを用いた床材用「A-700」の売れ行きは順調で月間70~90tと年間目標1000tに迫る勢いであった。

このため、シエアの90%を占めていた床材メ-カ-大手10社からも高い評価を得、床材施工業者から信頼される商品となった。 また昭和45年には住宅公団が接着工法を指定工法として採用したことによって用途に広がりを見られるようになってきた。

こうした状況下、昭和44 年6月には名古屋に本社社屋が完成して、営業の拠点が確立。その後も、営業所の開設(昭和45年、福岡・昭和47年、戸田)、や危険物倉庫新設(昭和 48. 名古屋支店・戸田営業所)が続いた。19期売り上げ1,329,654千円、生産量 6、800t、 社員 102人、(営業55人、生産47 人)と増大した。 このため甚目寺町移転10年にして名古屋工場だけでは手狭になり、大垣工場を新設することになった(昭和48年10月竣工)。これにより生産能力が倍増し、ますます規模が大きなっていくことになる。

また昭和46年には小林盛人社長が交渉の指揮を執り、アメリカの一流企業「HBフ-ラ-社」と懸案の技術提携が出来、これを契機として壁タイル用のセラミックボンドシリ-ズが生まれ主力製品として市場拡大に寄与することとなった。

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