タイルメントの誕生

- 創業当時の千代田町工場兼事務所
タイルメントの創業はまったくの「無」から生まれた。今日のベンチャ-の申し子みたいなものだ。
戦後の昭和26年まだ渡航がままならぬ時代、創業者である小林盛人(現名誉顧問)は名古屋タイル(現名古屋通商株式会社)のタイル売り込みにアメリカへ渡った。南米、北米と商談を続けながらニューヨークにたどり着いた。その繁栄に目を見張りながら、あちらこちらの建築現場で、タイル、大理石等、内装材を黒いネバネバ(名称・ミラクルグル-)したもので施工をしているのに出会った。このネバネバに興味を引かれ、職人に聞いて見ると接着剤だと言う。小林は瞬間的にこれは「モノ」になるとひらめき心が踊った。日本では建築分野での「接着」という概念はなく、もっぱらセメント、釘などに頼っていた時代だったから、これからの日本でも普及すると確信した。
帰国した小林盛人は中林信二(旧 社長)を誘い2人3脚で研究を開始した。小林盛人35歳、中林信二29歳のころのことである。
もともと化学にあまり精通していない2人だったが、縁あって井上正男(当時名古屋市工業研究所課長、後の当社専務))を知り、協力を得ながら約2年の歳月をかけて商品化に漕ぎ着けた。
昭和28年10月名古屋市千種区春岡通に特殊陶紙(株)として登記したが、すぐに翌年2月に社名変更で日本タイルメント(株)として実質的なスタ-トをきった。
販路もない、資金もない、技術者もいないと言う中での誕生である。
最初の工場は千種区の春岡通の借家だった。工場というより試作場と言う程度のものだった。悪戦苦闘の末、昭和29年夏頃には製品化の目途が立ってきた。
最初の仕事は名古屋にテレビ塔が建築されるときだった。事務所の天井に吸音板を張る工事を依頼されたが、工期が短く3日間での仕上げの要請を受けて施工することになった。まだ実績も経験も無かったが「T-100」で中林信二が徹夜の連続で何とか約束通り仕上げることができた。 この施工が竹中工務店に評価され、後々の業務拡張の要因になった。
その後昭和31年には、名古屋駅前の毎日ビルでリノタイルを張る工事があった。他社が松ヤニで造ったノリで施工したが、どうしてもタイル突き上げが収まらなかった。担当者が困っていたところへ小林盛人(当時専務)が酢ビ゙ベ-スの床ノリを売り込みに行った。施工実験したところ、突き上げも無くピッタリ収まり全面採用となった。矢次早の注文が来て生産が間に合わないほどになった。名古屋豊田ビル、名古屋中央郵便局ビル等の工事には床材メ-カ-各社の担当者が見学に訪れ、性能の良さが認識された。この事がまた飛躍のきっかけとなった。
創業して4年目(32年1月)にして名古屋市熱田区千代田町に社員10名で熱田工場の立ち上げが出来た。ようやく会社らしくなってきた。
神武景気といわれた昭和33年9月には生産と販売を分離(タイルメント販売株式会社、日本タイルメント株式会社)して新たな挑戦が始まった。また別法人であった東京、大阪、の営業所も販売会社が統合してのスタ-トになった。翌年9月伊勢湾台風により熱田区千代田町が水につかり、壊滅的被害を受けた。生産もストップしたが、全員必至の復旧作業の末、約2週間で製品出荷を果たし、お客様の信用を高める結果となった。
この台風を機会に工場移転の機運が高まり、2年後の36年6月海部郡甚目寺町に工場が完成して 営業、生産における基盤が整ってきた。
- 第1回
- タイルメント誕生
- 第2回
- 社内誌誕生
- 第3回
- 名古屋工場完成
- 第4回
- 技術研究所完成
- 第5回
- 大垣工場完成
- 第6回
- 大垣工場に集約・増強
- 第7回
- お稲荷さん
- 第8回
- 新しい波を乗り越えて
- 第9回
- 新時代への挑戦 社会との共生
- 第10回
- ISOへの取組み
- 第11回
- コンピュータ への取組み
- 第12回
- 年表









